楽観的な人は、失敗を省みない人

※ 多分に毒っぽい内容なので、このブログのタイトルを読める人だけ読んでくださいね。

 

 

 


最近、個人的に高齢の方になにかを教える機会が多いのだけれど、教えている際に、非常に気になることがある。

「自分の都合で記憶を書き換えてしまう」ことだ。

たとえば、(高齢者)本人が「わからない」と持ってきた契約書の内容とかで、私が代わりに読んでもちょっと不明な点がある場合「この部分は直接担当者に確認してみてくださいね」とその場では保留にすることがある。
本人は「○○について担当者に確認する」とかメモを取るのだが……実はこの時点で本人は「問題の内容」を全く理解していない。
それで一応(本人の行動で)担当者に問い合わせて確認するのだが、結局たらい回しになって返ってくることが多い。
(と、私はここまで想定した上で、あえて確認を取っているだけである)

そして、私はその「たらい回しになった」結果を踏まえた上で、代替手段を示したり、私の責任で「問題なし」と判断して認可したりするのだけれど……


ここで多くの高齢者が怒り出したり、あるいは「自発的な行動とすり替えてしまう」のである。

 

まず怒り出すケース。
これは私が「保留にした」ということを、勝手に本人は「私が分からないといって放り出した」と認識しているのである。
「勝手に」というのは悪意のある言い方だろうか。
しかし実のところ「ああ、おそらくこの人は(認知できていないことを私のせいにして)後で怒り出すんだろうなあ……」と想定しながらも、私はその指示を出しているので、「勝手にそのように思い込む」であろうことまで見越した上での操作だったりする。

私自身も「ああ、あとで怒鳴られるんだろうなあ……」と思いながらの対応なので、あまりやりたくはないのだけれども、(体面上)本人に確認を取らせた上で「やむを得ずこちらで預かる」という形を取らざるをえなかったりする。

ちなみに本人は「アイツは使えねえ」とレッテルを貼って片付けるのがパターンになっているので、特にダメージは無い。
私からは、「おそらく今までもそうやって生きてきて、周囲が苦労してきたんだろうなあ……」と思いやるぐらいしかできなかったりする。
そして今回の一件も、そうした過去のパターンの一つを積み重ねるだけの出来事になり、おそらく一生をそのように思いこんで終わるのだろうなあ、と想像する。

 

次に「自発的な行動とすり替えてしまう」パターン。
これは私が「保留にして、確認を指示した」ということを忘れて、(しかしメモは手元にあるので)「本人が自発的に聞いてきた」と記憶を創ってしまうのである。
もちろん、本人は「問題の内容」を全く理解していない。
だから全く意味のわからない質問を繰り返して「担当者を困惑させた」という手柄(と本人は思っている)を持ち帰ってきて、私に嬉々として報告してきたりする。

まあそれを受けて、私も「そうですかー、向こうでも分からなかったんですねー。それじゃ、仕方ないのでこうしておきましょうか~」とか言って、代替手段を示したり、“やむをえず”越権的な対処で済ませる。
怒り出すケースに比べれば穏当とは言え、これも本人にとっては「苦労したけれど、私がどうにかした」手柄と認知し、今回の一件も、そうした過去のパターンの一つを積み重ねた出来事になり、おそらく一生をそのように思いこんで終わるのだろうなあ、と想像する。

 

これらの原因はなんだろうか。
①高齢者だから
おそらくは、これが一般的な解釈だろう。
加齢により認知能力が下がり、このような行動に至っているのだろうと。
しかし、例示したとおり「高齢になって急に出現した事象」ではなく、実は長年積み重ねてきた一連の行動が発露しているにすぎない。

 

②(現在高齢者にあたる)特定の年代では標準的な傾向だから
これもおそらくは一般的に考えられる解釈だと思う。
つまり「昔ならこれでも許された」。そして「周囲が立ててくれてきた」
私自身も少し前までは、このように考えていた。
少なくとも私自身にはこのような傾向はなく、同世代の周囲の人間にもあまり見られない傾向だからだ。
同時に現代的な評価基準においては、「立場を重んじた」対応をされることは少なくなり、このような考え方を持ちにくくなってきた。そのように考えていた。

 しかし、心理学の勉強を始めて周囲の人を注意深く観察するようになってから気づいてしまったのだけれども、実はこのような考え方をする人は世代を問わず「結構いる」。

 


 ちょっと話が脱線するが、次項の考えに至ったきっかけとなるエピソードを紹介したい。
以前、私がまだ心理学を学び始めた最初の頃、車中で友人に、ちょっとした「豆知識」みたいなものを披露したことがある。
しかしその友人はその「豆知識」の内容が気に入らなかったらしく、急に怒り出してしまったことがあった。
私は彼の怒りのポイントがさっぱり分からず……まあ険悪な雰囲気は理解したので、それ以上特に語ることなく一晩置いた。

 

 そして翌日の車中で、彼は……ふと昨日と同じ情景から何かを思い出したのだろうか。
前日の「豆知識」を「テレビかなんかで聞いたんだけど……」と、得意げに披露し始めたことがあったw

以前の私なら「いや、それ昨日私が話した内容そのままなんだけどwww」と指摘するところだったけど、ちょうど心理学で「人は記憶を捏造する」という話を勉強していた頃だったので、その場は適当に相づちを返して、彼に語らせるままにしておいた。

 

 彼は「私が話した」ということを忘れてしまったのだろう。
 そして都合よく「テレビの受け売り」ということで埋め合わせたのだろう。
 同時に「彼も、そろそろいい年なんで認知症が出始めてるのかもしれないなあ……」と残念に思ったりもした。

 しかし、それ以後あらためて彼の言動を振り返ってみると、実は「なんかムカつくからキレる」「すぐに忘れる」という特徴は昔から変わっておらず

「なんかすぐブツクサ文句をいう」けど「嫌なことがあってもすぐ水に流す」という彼の特徴として、私のほうが勝手に美化していたんだな……と数年経ってから気づいた。

 

 

③性格的な傾向
そう、表題の「楽観的な人」という傾向だ。
つまり「怒り出す」「自分の手柄にすり替える」という彼(彼女)らの厄介な行動は、本人たちにとっては「楽観的」な物の見方であり、彼らからすれば私のほうが「裏を取りたがる(あるいは、裏で何やら画策する)」「細かい事を気にする」「悲観的」な人ということになるのだ。

 

 たとえ事実と反していても、彼らが「信じている」内容であれば、それが彼らにとっての「真実」であり、

結局のところ本人の望んだ形で落ち着いている(というか、失敗に終わったケースは、彼らの中では「なかったこと」になる)ので
「なんだよ、やっぱり俺が(私が)正しいんじゃん!」「お前はいちいち細かいこと気にし過ぎなんだよ!」ということになる。

 

 当然このパターンを繰り返せば「常に正しいのは私」ということになる。
ゆえに彼らの中で失敗は「なかったこと」になる。
百歩譲って、彼らが「失敗した」と認知したことがあったとしても、それは彼らを持ってしても「失敗した」と受け入れざるをえない範囲の出来事であり、些末な失敗のほとんどは「他人のせい」だったりする。

 

まとめ
一見するとポジティブな意味でしか捉えられない「楽観的」という言葉だけど、
実のところ「事実を認知できない」「認知できない環境を一生構築しつづけてしまう」という問題も孕んでいる。

逆に(私も含めた)「悲観的」な人というのは、「事実を踏まえた上で(悲観的な)結果を例示しているだけ」ということも少なくない。
(これは「抑うつリアリズム」についても、通じる部分があると思う。)
※実際のところ、私が「判断できないようなこと」については、楽観的な……投げやりで適当な回答しかしていないことも、まあまあある。


何を重視するかは人それぞれなので、だからまあ……これ以後の結論は、完全に私の視点からの偏見なんだけれども

「楽観的」な人の意見は、環境的にも楽観的にあり続けた人なので、少し疑問に思ったほうがいいし
「悲観的」という言葉は、(楽観的な人からの)相対的な評価に過ぎないことも多いので、あまり振り回されないほうがいいかな、と思いました。

 

※ この話を書いてる最中に偶然見つけた、為末大さんのnoteも参考にされたい

note.com